同窓会

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ALMO 2017.11

Nakayama01中山久憲

 

 

神戸学院大学

現代社会学部社会防災学科 教授

国内プログラム (1983年修了)

 

 

 

 

中山さんのこれまでのキャリアの道を教えてください。
また専門分野とその分野に従事するに至った経緯を教えてください。

1975年、大阪大学大学院工学研究科土木工学専攻を修了し、神戸市役所に入庁。その後、神戸市より埼玉大学大学院政策科学研究科に派遣され、1983年に政治学修士を取得した。神戸市では、主に、①交通施設の計画、②市街地開発事業の計画と事業の実施、③土地利用計画の作成と規制の指導、④住民主体型まちづくりの誘導と事業、⑤震災復興事業の事業計画策定と事業の実施に携わった。神戸市の兵庫区役所まちづくり推進課長として区の広報紙の発行や住民意見の聴取を担当していた1995年に阪神・淡路大震災が発生し、住民の生活再建の手続きや、震災復興事業の住民の支援に尽力。その後も震災復興事業の住民参加を推進し、復興事業の実施地区内に設置されたまちづくり協議会の活動の人的財政的支援の業務を担当した。2009年の退職まで、震災復興事業の総括責任者として復興事業の完了のための作業や手続きを指導し推し進めた。また、2011年に発生した東日本大震災では、阪神・淡路大震災の経験を活かすべく国土交通省から直轄調査作業監理員に委嘱され、宮城県名取市の復興計画策定業務を支援した。現在は、神戸学院大学現代社会学部社会防災学科教授として教鞭をとっているほか、著書を通して、学生や広く一般に阪神・淡路大震災の復興事業に関わった経験を伝承している。

 

 

1995年に阪神・淡路大震災が発生した当時、中山さんは神戸市役所に勤務されていました。震災後の復興事業における中山さんの役割について教えてください。

Nakayama021995年の阪神・淡路大震災の発生の直後は兵庫区役所まちづくり推進課長として、被災地の被災者に最も近い前線で、被災者支援事務(緊急支援物資配布、避難所、倒壊家屋の解体申請事務、義援金、罹災証明書発行、応急仮設住宅の入居・維持)を分担あるいは応援をしました。3ヶ月後頃から、復興まちづくり事業の支援を1996年まで担当しました。

 

1997年から2000年までの4年間は、都市計画局アーバンデザイン室でまちづくり支援担当課長として、復興事業の実施地区内に設置されたまちづくり協議会の活動支援と、住民主体型の事業を推進するための「神戸市まちづくり条例」の適切な運用を担当し、事業施行者である行政と被災者との協働事業の推進を図りました。

 

2005年から2009年までの5年間は、都市計画総局の区画整理部長、市街地整備部長、参与として、震災復興事業の土地区画整理事業と再開発事業の事業責任者として、事業の終息期の様々な事業執行手続き(国との補助金の申請と執行、事業認可・都市計画の変更)の推進や複雑な権利の関係者との調整(補償金の算定、清算金の算定、行政処分手続き、裁判等)を行いました。

 

2011年には東日本大震災が、2016年には熊本地震が発生しました。
阪神・淡路大震災の被災地における知識やノウハウを、それら二つの震災後の復興にどのように共有し活用していますか?

Nakayama042011年の東日本大震災の発生直後に阪神・淡路大震災の経験を活用してほしいと、国土交通省から直轄調査作業監理員として委嘱され、宮城県名取市の2011年度復興事業計画策定業務を支援し、12回開かれた会議に参加しました。また、2014年から2015年の2年間は国土交通省の「東日本大震災による津波被害からの復興まちづくり検証委員会」の委員を委嘱され、震災から5年間の復興事業・まちづくりの検証・評価について阪神・淡路大震災の比較を交えて進言をしてきました。

 

2011年から現在まで、毎夏に岩手県から福島県の東日本大震災の被災地の復興状況の定点観測のため、現地調査と行政職員や被災者へのヒアリングを実施しています。

 

2016年に発生した都市直下型の活断層による熊本地震では、2016年の夏に現地調査を行い、関係者からのヒアリングの実施、2017年には益城町の復興事業に阪神・淡路大震災の復興事業手法が活用できるかのアドバイザーとして現地調査や熊本県庁の担当者から意見を聴取しました。

 

また、阪神・淡路大震災の復興事業に関わった経験を伝承するための著書として、『苦闘 元の街に住みたいんや!-神戸市湊川町・住民主体の震災復興まちづくり-』(晃洋書房、2008年)、『神戸の震災復興事業-2段階都市計画とまちづくり提案-』(学芸出版社、2011年)、『住民主権型減災のまちづくり-阪神・淡路大震災に学び、南海トラフ地震に備える-』(ミネルヴァ書房、2015年)を発行しました。被災都市の行政職員やまちづくり団体関係者の方々の事業への進め方や関わり方の参考になればと思います。

 

 

中山さんは現在、神戸学院大学の現代社会学部社会防災学科で教授をされていますが、現在中山さんが関わっているプロジェクトを教えてください。Nakayama03

①    神戸学院大学では、防災に関する授業として2回生に「防災行政学」、同「防災まちづくり論」、3回生に「阪神・淡路大震災研究」を教えています。
②    また、大学の図書館・情報支援センター長として、設備の充実・整備・管理業務を担当し、9学部11,000人の学生および先生方の学習や研究の支援を進めています。
③    (一財)区画整理促進機構の登録専門家として、全国の県・市・団体からの派遣要請を受けて災害発生時の事務の進め方や、復興事業の進め方について講演活動も続けています。
④    2015~2017年の国際交流基金事業として受託したThe East-West Center(東西センター)の「日米草の根市民交流事業-被災後の市民参加事業」の日本側のメンバーの一員(阪神・淡路大震災の被災地神戸、東日本大震災の被災地宮古、米国ハリケーン・カトリーナの被災地ニューオリンズ、ハリケーン・アイクの被災地ガルベストンの各都市5人計20人)として、2015年には日本訪問があり、2016年には米国を訪問してきました。2017年冬には米国で、総括の事業が予定されており、参加して、両国あるいは被災地域の災害からの復興のあり方について意見交換ととりまとめを行っていきます。

 

中山さんがこれまで従事された仕事の中で直面した最大の挑戦や課題は何ですか? また、これまでのキャリアの中で最も興味深い、あるいはやりがいを感じたことを教えてください。

私のキャリアの中で最も長く深く関わったのは、阪神・淡路大震災からの復興の様々な局面を担当したことに尽きます。その際の課題は、行政としていかに早く復興を成し遂げるかの業務の進め方として、国と県および市の内部組織との調整でした。そのために挑戦したことは、被災者の立場に立って生活再建をいかに迅速に進めるかを主要課題としたことでした。それは、建前と本音が交錯する中で、いかに本音の部分を引き出すことと、被災者間に行政の対応に差をつけないことでした。つまり、まちづくり協議会活動に関わる住民リーダーの話を聞き、専門家派遣したコンサルタントとの意見調整した中で、何が優先される課題かを共通認識できるようにすることでした。その中で、やりがいを感じたのは、事業が完了した際に、被災地域住民から「いろいろあったけど、素晴らしいまちとして復興できて良かった」という率直的な発言でした。その発言に込められた内容は、その事業に関わった行政職員それぞれへの本心からの感謝の思いだと感じました。復興事業は、土地に関わる事業で、利害と損得が発生することになりますが、地方自治体の担当者として、かなりの期間業務に関わり、全く損得無く、住民に対して公平・公正に仕事ができた証でもあるからでした。

 

災害管理専門家としての中山さんの技術力において、日本が現在直面している最大のチャレンジと、日本の災害対策の強化のためにされうることを教えてください。
Nakayama06「天災は忘れたことにやってくる」という名言通り、自然災害は一定の周期で必ずやってきます。首都圏直下地震、あるいは、南海トラフ地震、900hpcクラスの超大型台風の来襲は避けられないのが現実です。しかも、東日本大震災で明確になったように、千年に一度という大規模な災害を技術でもって抑えることは可能でも、国家の予算を食いつぶす巨大な構造物は「無用の長物」となってしまうことも明らかになりました。さらに、人口減少社会の現実化で、地方財政は縮小し、公務員の数も減少を避けられません。

 

これからは行政依存型の「防災」ではなく、「減災」による行動、すなわち事前の想定で安全な場所を確保し、住民自身が率先して避難しておくことが老若男女の命だけでも助かる道となります。そのためには、住民自身がまちづくり協議会のような組織を作って、住民自身で考えて、「できることは住民で行い、できないことは行政に任せる」という私の考える「住民主権型の減災のまちづくり」(同名の拙著参照)を目指すことが、災害対策の基調になるでしょう。それには、行政依存型になっている法制度を変え、都市やまちをコンパクトに造りかえるという息の長い挑戦をしながら、常には災害から身を守っていくことになるでしょう。

 

GRIPS/GSPSでの経験が中山さんにもたらしたものとは何でしょうか?また本学で過ごした時間や研究は、その後の生活やキャリアにどのような影響を及ぼしていますか?

私は、地方を良くしたいと生まれ育った神戸の市役所に入り、アンチ東京、アンチ中央として、「地方分権」を追い求めてきました。しかし、GSPSでの2年間の当時は、まだまだ成長の時代でしたので、私の専門分野である都市計画の事業の進め方は、中央集権型で成長拡大の政策をとり続ければ豊かに暮らせるという「神話」を実感せざるを得ませんでした。さらに、埼玉および首都圏での生活で、カネ、モノ、情報が神戸とは比較にならないほど集中する現実を知り、「神戸は偉大なる田舎の都市」に過ぎないことをショックとともにひしひしと実感しました。そんな現実を理解できたことで、神戸に帰ってから、「神戸は田舎でよい」と確信して、GSPSでの政策研究で学んだ「政策決定」のあり方を活用し、当時では逆の発想の「都市の縮小」の土地利用計画の取り組みに挑戦し実施しました。そして、バブル崩壊や阪神・淡路大震災の発生で、「失われた20年」と呼ばれた時代を経験し、あらためて、政策決定は誰の手で行うべきかをしっかりと認識できることとなりました。復興事業が完了した現在では、「田舎の神戸」でよかったと再認識しています。自分の小さな器なりを考えて実行した政策が実現できたことで、プランナーとしての自分があったと思えたからです。首都圏だったら、自分の力では何もできなかったと思います。現在、田舎の神戸の大学で、神戸にあこがれて地方から学びに来た学生に、自分のふるさとが一番で、できれば地元に帰れる職業(地方公務員・警察官・消防士)に就けるようアドバイスをしています。GSPSでの2年間の経験が無ければ、現在の私の思考や行動基準ができなかったと思います。その意味で、素晴らしい2年間でした

 

GRIPS/GSPSでの一番の思い出は何でしょうか?

それは、なんといっても恩師であり現在の名誉学長の吉村融先生に出会い、教えを受けたことに尽きます。先般、久しぶりにお会いし、時間をいただきお話をさせていただきました。80ウン歳になられましたが、元気ハツラツで、私が想像したこともない素晴らしい発想の連続に、いつもながら圧倒されました。そして、そのアイデアの新鮮さを聞かせていただいたお陰で、自分自身の思考回路をすっかりリフレッシュさせていただき、学生であった当時にスリップもさせていただきました。

 

埼玉でのGSPSの2年間の思い出をあえて探せば、ある一つの出来事をきっかけに、研究棟への不審者の侵入を阻止する必要が生じました。その際に、院生の学生自身も一つになって動こうとしたきっかけから、「院生会」を組織することとなり、私が初代の会長になったことです。それから36年も経ちましたので、院生会の活動として覚えているのは、研究科の先生だけではなく、海外からの先生方を招いて学生との交流パーティを開き、音楽の演奏も学生達でしたことです。さらには、修了する2年次の先輩方に、研究科での生活ぶりを写真に撮り、それぞれに写真集を作成して贈答したことです。

 

それと、当時は2年制でしたので、上下の関係がありましたが、談話室で、当時の政治経済の問題を出身団体としての立場やあえて外した立場で、丁々発止の議論ができたことと、裏話が聞けたことも楽しい思い出として残っています。

 

今後どのようにGRIPSとの関係を維持していきたいですか?
GRIPSの修了生ネットワークをより一層活用していくために、何かご意見はありますか?

できれば卒業生として母校であるGRIPS/GSPSと関係を維持したいと思っていますが、ほとんどきっかけが無く、寂しい思いをしています。私のこのインタビューの内容を同期生や前後の先輩・後輩の同窓生に読んでいただくことがあれば、是非、連絡いただければと思います。そういうことを通じて、少しでも同窓生の輪が広がることを期待しております。

 

 

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