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「核の傘」の構築をめぐる歴史的分析-同盟管理政策としての核密約

博士論文、要旨、審査要結果

学位取得者氏名: 太田 昌克
学位名: 博士(政策研究)
授与年月日: 2010年1月27日
論文名: 「核の傘」の構築をめぐる歴史的分析-同盟管理政策としての核密約
主査: 飯尾潤教授
論文審査委員: 田中孝彦教授(早稲田大学)
大山達雄教授
道下徳成助教授

I. 論文内容要旨
 本論文は、序章で、論文のねらいや基本的な問いなどを明らかにしたうえで、第1章と第2章において、アメリカの核戦略構築過程に沿って、ヨーロッパにおける「核の傘」の成立過程を検討して、「核の傘」が持つ意味を明らかにした。それを受けて、第3章と第4章で、東アジアとりわけ日本に関して、アメリカがどのような「核の傘」を構築したのかを明らかにし、そのなかで、「核密約」がなぜ結ばれたのか、それはどのような意味を持ったのかを検討している。最後の第5章において、本論文が初めて明らかにした歴史的事実を列挙したうえで、序章の問いにまとめて解答し、それをもとに「核の傘」の問題点と、「核密約」が「同盟管理政策」としての意味を持っていたことを指摘し、今後の外交に関する政策提言を付け加えている。
 具体的に整理すると、序章では、本論文のねらいと、先行研究に対する独自の意義について、「核の傘」に関する歴史的な事実の徹底的な掘り起こしと、ヨーロッパと東アジアの比較、秘密合意を総合的・連続的に検討することで「密約の連鎖」が生じたことを明らかにしたことに、大きな意義があると説明した。そのうえで、論文全体を貫く問いとして、日本への「核の傘」は、どのようにして構築が始まり、成立したのか、「非核3原則」を掲げていた日本の政治指導者は、それと矛盾する「核の傘」をどのような戦略的認識を持って受け入れ、日本はいつから「核の傘」に入ったのか、アジアへ「核の傘」の構築を進めたアメリカと、日本防衛のために「核の傘」を求めた日本の政権との間に政策上の齟齬はなかったのか、という3つが設定された。
  第1章では、アメリカにおける核戦略の形成過程を追い、トルーマン政権では1948年のベルリン危機期において核抑止という戦略概念の有効性が意識され、それが発展し、アイゼンハワー政権において「大量報復戦略」を基調とする核抑止理論が成立したことを概観し、その具体的な裏付けとしてヨーロッパに配備された核戦力を検討し、冷戦の最前線で、「核の傘」が形成されていく様子をたどっている。
 第2章では、核戦略に対する批判を受けて、ケネディ政権が1961年以降「柔軟反応戦略」を採用する過程で、「核の傘」を頼りとするヨーロッパ諸国との軋轢が生じ、これに対応して「核兵器の共同管理」をはかろうとするNATOの動きが出てきた過程をたどった。そして、次のジョンソン政権では、さらに進んで、同盟国と「戦略協議方式」をとるようになり、「相互確証破壊」という核戦略が確立する流れが記述されている。
 第3章では、アメリカの歴代政権が核戦略上、どのように日本の国土を位置づけたかを中心に、東アジアにおける「核の傘」の形成過程を検討している。この章では、アメリカの機密解除公文書など一次資料を駆使しつつ、西ドイツのへの核戦力配備と平行して、1950年代半ばに日本にも核兵器を陸上貯蔵する動きがあったことを解明したほか、1972年の返還までの沖縄で核戦力がどのように配備され、 どのような核戦略上の役割を担っていたのかを解明するともに、戦術核を搭載したアメリカ海軍艦船が日本への寄港を繰り返していた事実を解明した。そうした 具体的な事実の確認を通じて、アメリカ軍が策定した全面核戦争計画における日本国土の位置づけを検討するとともに、アメリカにとって、日本への「核の傘」の提供が、「潜在的核保有国」である日本の核武装化を封じ込める性格を帯びていたことを指摘している。
 第4章では、日本側の視点から、内外の資料に基づいて、日本がアメリカの「核の傘」を受け入れていく状況を解明し、日本の歴代政権が、いかなる認識や戦略によってアメリカの政策に対応したのかを検証している。具体的には、日本の歴代指導者がいだいた脅威認識、核搭載艦船の通過・寄港などアメリカ軍の核運用政策に対する日本側の姿勢、日本の「非核政策」とバランスをとりながら「核の傘」を受け入れている日本の政策決定を、秘密合意が結ばれた過程を鍵としながら、解明している。そして、核兵器に対す る反発が強いという日本の政治的事情を考慮して、アメリカの日本に対する「同盟管理政策」として、密約が多用されていく状況を描き出している。
  第5章では、冒頭で本論文が発掘した新たな歴史的事実を18項目に整理して示したうえで、序章で提起した問題への解答を述べている。第1の日本にかかわる 「核の傘」構築に関しては、1950年代にアメリカ軍はNATO諸国と同様に日本へも核戦力配備を目指したが、外交上の配慮から断念し、沖縄への核戦力配備や、核装備した空母部隊の日本展開などの核戦力投射を行うことで「核の傘」が形成されたと説明している。その後ケネディ政権の柔軟反応戦略以降は、戦略核体制のもとでの「三重構造」の核抑止力態勢において、沖縄やアメリカ艦船搭載の戦術核の政略的価値が相対的に低くなり、その延長に「核抜き本土並み」の 沖縄返還が実現したとしている。
 第2の、日本が「核の傘」を受け入れる際の指導者の戦略認識と、「核の傘」に入ることを決めた日本の政策については、日本の歴代指導者が、核抑止の戦略概念を理解し、「非核」を標榜しながら、アメリカの拡大核抑止政策を支持して、「核の傘」を受け入れていった経緯 を示し、その決定の背景には、朝鮮半島情勢のほかソ連や中国の脅威とする認識があり、1960年代にアメリカの指導者が明確な意図を表明すると、日本の「『核の傘』への依存」が確立したとしている。
 第3の、「核の傘」をめぐる日米の政策的齟齬の有無については、東アジア全体に「核の傘」を構築 したアメリカと、日本防衛のために拡大核抑止力を望む日本には、1950年代から70年代初頭にかけて政策的な齟齬はなかったとしながら、次の問題点があったとした。ヨーロッパなどと比べると、日米においては政策的調整の体系的制度化が不十分で、「核の傘」の実効性や安定性に問題があったこと、日本国憲 法の制約による日米同盟の片務性や、核に関する日米の著しい非対称性が、同盟管理上の問題を生じ、密約の連鎖をもたらすことになったこと、アメリカの有事核作戦遂行に必要となる措置を担保するため、非核を希求する日本国民の知らない形で密約が結ばれていたため、重要な政策における指導者と国民との信頼関係が損なわれたという3つの点である。
 このような結論に付け加える形で、政策的な含意として、一連の秘密合意を検証して、国民に公開するなかで「核の傘」の実態を検証し、過去の核運用に関する全般的な評価を行うこと、冷戦後の抑止態勢に関する日米両政府間の政策調整を緊密化し、核政策をめぐる調整機関をおくこと、日本が受け入れてきた「核の傘」に関して、冷戦後の現代的な核の脅威や、日本にとっての安全保障上の問題、通常戦力の著しい向上などを考慮して、その政策的な是非を政府主導で検証すること、の3点を提言している。

 

Il. 審査結果報告
 平成21年12月3日(木)13:00-14:30の博士論文最終報告に引き続き、主査飯尾潤教授、副査田中孝彦教授(早稲田大学)、大山達雄教授、道下徳成助教授による審査委員会が開かれた。この際、本論文について、次のような意見が出された。

 

  1. 機密解除公文書、インタビュー記録など、独自に入手したものを含む広範な一次資料をもとにした本格的な外交史研究であり、たいへん質が高いものと認められる。

  2. これまで断片的なアプローチが主流であった当該分野における包括的な研究であり、その意義は大きく、出版して、広く学界の財産とすべき優れた研究である。

  3. 第1章、第2章がかなりの分量であるにもかかわらず、全体の構成上、やや軽く扱われているようであるが、章立ても含めて、その位置づけを工夫すべきである。また、仮説と検証などの形式をとった方がよいのではないか。

  4. 論文中に訂正を要する細かな表現上のミスがあるようなので、それについては最終稿で訂正すべきである。

 

 全体として、本学の博士にふさわしい内容であると全員の意見が一致し、上記で指摘された諸点について修正したうえで、博士(政策研究)の学位を授 与することが決定され、最終版承認の判断は主査にゆだねられた。その後、平成22年1月8日に、修正した最終版が提出され、主査が適切に修正されているこ とを確認した。なお、上記意見の3.に関しては、第1章と第2章が、それ以降の章で使われる分析枠組みを導き出すとともに、比較対象を提供する部分である ことを、序章や各章冒頭などで明確にすること、外交史的研究の様式に沿って問いと答えとの照応関係に関する記述を明確化するという方針で修正が行われた。

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